俯瞰(ふかん)の哲学
俯瞰は、鳥瞰(ちょうかん)ともいう
「高いところから見おろす」という意味である
高いところと言っても、「上から目線」ということでは(当然)ない
全体を見渡すために、高所に上がって眺めるということだ
「高所が嫌いな吉島が言うのはおかしい」と思われるむきもあろうが、
そういうことではない
物理的な、○○フィートとか○○メートルということでは(これも当然)ない
よく「虫の目」と「鳥の目」と例えるが、俯瞰とは「鳥の目」で眺めるということ
ここで、意識してみて欲しいのは「鳥の目」を持った時には、
同時に「虫の目」は持てないということである
両方の目を同時に持つことは、人間、できないのだ
私たちが主テーマにする「生活」は、「虫の目」で見る必要があろう
しかし、アセスメントは「虫の目」だけではできない
「鳥の目」も必要なのである
注)「魚の目」というのもあるが、これはまたの機会に
他者の「生活」を考える前に、自身の「生活」を考えてみて欲しい
野菜を刻み、風呂を沸かし、子どもたちを送り出し、出勤し労働する
これらは、すべて「虫の目」
野菜の刻み方を思い出し、「△△ストアの野菜は、新鮮で安いよね」とか、
「寒い時は、ゆっくり湯に浸かる方が翌朝はスッキリするよね」とか、
「春休み明けは、子どもたちを早めに起こしたほうがいいかもね」とか、
振り返る時は、すべて「鳥の目」
「鳥の目」を持つ時は、具体的な「生活」という活動は、一時的に止めている
つまり、「虫の目」は休んでいる
哲学的に考えるというのは、「虫の目」を休ませて
「鳥の目」を持つことだ
これを『メタ』という
そういう意味では、哲学するということは、一旦、「生活」から遊離することなのかもしれない