場所の力

 大阪を離れて一年が経とうとしている。およそ3年間、大阪市でケアマネジャーをしていたのだった。 離れてみて、色々見えて来た事があったので、つらつらと書いてみたい。

 淀川と尼崎に挟まれたこのまちは中小工場のまちだ。阪神工業地帯と呼ばれた地域にある。高度成長期には、尼崎や淀川の反対側の工場からの煙が溜まり空が見えなかったと言う。朝出勤して徹夜で働いて、翌朝、みんなで飲みに行くなんてざらだったと、地域の人に教えてもらった。
 工場での事故やアルコール・喫煙、公害。今は工場も減り、空も当たり前に見えるようになったが、その分、この土地の記憶は人の身体に刻みこまれているようだった。呼吸器疾患、内分泌・脳神経障害。四肢の障害、アルコール依存を抱えた人が多かった。

 しかし不思議と起きてしまった事を見つめるより、退院したら、こうなりたい、こうしたいと言う希望を持った人が多かった。
 この街の人たちは何故かデパートが 好きだ。デパートに行く事を皆、楽しみにしている。
 「梅田のデパートに行けるようになりたい」と言う目標が多かった。

 その人は、脳梗塞を起こして入院していた。私に会うと、こう言った。

 「私は月1回、阪急の喫茶室で 神戸に住んどる幼なじみと会いますんや。それが楽しみなんや。一人で梅田まで行けるようにしてくれへんか。人について来られるなんて、カッコ悪いわ。」 明確なビジョンが見えているようだった。大阪は今までいた所から比べると、リハビリの支援が充実していた。特にボバース・コンセプトが浸透しているセラピストさんが多かった。理学療法士さんは駅までの移動方法、駅で電車に乗る為の訓練をしてくれた。本人の努力が実り、自分なりの方法で無事に梅田まで行けるようになり、みんなで喜んだ。

 思えばこの土地は起死回生、やり直しの土地であった。
 昭和20年6月15日の空襲で土地の半分が焼け野原と化した。やっと立ち直ったと思ったら今度は公害だ。
 隣地からのもらい公害で訴訟を起こしても勝ち目がないと言われた裁判を、努力して勝ち取り、青空を取り戻した。

 また、この土地の氏神は「決断と行動・やり直しの神様」として信仰されてきた比売神だ。戦前木綿織が盛んで、活況を呈したまちだった為、祭りも盛大で、2重構造の大きなだんじりを4基所有、さらに昭和初期には10基以上のだんじりを所有していた。戦火で全て焼失したが、戦後3基を再生。祭りが繰り返されるたびに決断と行動の新しい一歩を踏み出したい人を応援している。

 私たちは今暮らしている場で過ごす事により、歴史的にも文化的にも身体的にも影響を受けているのではないだろうか。場所の力が心身に影響を与えるのだ。その土地固有のものが有れば、それが心身に影響を与える。心身と場は二つに分かれる事なく違いに混じりあっているものなのだろう。
 行動の新しい一歩を踏み出したい人を応援している。

 私たちは今暮らしている場で過ごす事により、歴史的にも文化的にも身体的にも影響を受けているのではないだろうか。場所の力が心身に影響を与えるのだ。その土地固有のものが有れば、それが心身に影響を与える。心身と場は二つに分かれる事なく違いに混じりあっているものなのだろう。

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