日々是好日
スーパーの中にある、野菜の産地直送コーナー。地元の農家の方が作った旬の野菜が、所狭しと並んでいる。一般にはあまり見かけない珍しい品種のものもたまにあるので、私はここに立ち寄るのをいつも楽しみにしている。
あるとき、色の薄い丸々としたナスと出会った。紫色が抜け落ちたような白。というより、白いナスに刷毛で絵の具の紫をサッと塗ったような感じ。どうもあまり美味しそうには見えなかった。変わったナスがあるもんだなあと思いながら素通りしようとしたそのとき、生産者の名前と手書きの文字で「イタリアンなす」と書かれた小さな紙が目に入った。
イタリアンなす
ボールペンで書かれたその字に私は興味を持った。この字を書いた人はどんな人だろう。どんな思いでこの野菜を育て、売り場に出したのだろうか。「ン」と「な」のペン運びが特に私の心を釘付けにした。これは、、、高齢の方が書いたのではないかな。仕事で会う利用者さんが書く字は、こんな雰囲気を持っていることが多い。
ということは、高齢でありながら珍しい海外の野菜に挑戦したというわけだ。食べてみたら美味しかったので、他の人にも味わってほしくなった。色が変わっているので皆驚くかもしれない。これはイタリアンなすだよ、と教えてあげねばなるまい。と、こう思ったのだろうか。小さな紙に何枚書いたのだろう。丁寧に一生懸命書かれたように感じられる。「買ってくれるかなあ。食べてくれるかなあ。」そんな期待を持ちながら。
即座に私はイタリアンなすをカゴに入れレジに向かった。野菜に惚れたわけではない。この文字に生産者の姿が浮かび、「ン」と「な」のペン先の勢いに惹かれたのだ。
本人がそこにいないのに、その手で作られたものや大事にしているもの、時にはよく座っている場所などからも、おぼろげながら人物像がイメージできることがある。人は例えば本の置き方や机の上の散らかし方、服のしまい方などにも、靴を履きつぶしたりしながら今を生きていることを記している。
投稿者‘PAO
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