「どこを切っても」
昔、仕事というものは一人目の客であっても五十人目の客であっても同じように対応できることが大事だと思っていた。プロとはそういうものだと。
十人目、二十人目と重なってくるとだんだん疲れもたまってくる。やることが雑になったり笑顔が消え、声に張りがなくなる。従来型特養での夜勤をしていた頃。最初の人のおむつ交換から一時間以上排泄ケアをし続けていてもまだ全員終わらない。最後の人と向き合った時、もう心は休憩のことばかり考えている。
よく画一的であることを金太郎飴に例えられる。どこを切っても同じ顔。しかし、手作りである金太郎飴は飴の棒によって、若干表情に違いが生まれるようだ。よーく見ると、微妙にどこか違っている。
「手作り」だから。みんな違うことが評価される。世界にたった一つしかありませんよ、と。
「手作り」なのに、どこを切っても同じ顔なのが評価される。兄弟喧嘩も起こらない。
節分の豆が店先に並ぶようになった。「恵方巻き予約承ります」の文字が見える。いつの日からか全国的な行事になった太巻きの丸かぶり。このときの巻寿司は金太郎飴のように切ってはならない。切り口はどれも同じように見えることは誰でも知っている。
その模様が何色で、中に何が入っているかに人の関心は集まる。どこを切っても同じ顔というよりも、その顔がどんな表情をしているかの方が重要なのだ。ということに気がついた。
中身が問題なのである。
(投稿者@PAO)