コミュニケートの「相称」が、「非相称」となった時に“支配”が生まれる。

分かりやすい例を引くと、SNS(ホームページ、ブログ、フェイスブック、ツイッター等)。
以前から僕は、「発信できる人しか受信できない」説を唱えてきた。

日常の言語であれば、発信する人と受信する人のエネルギーはそう変わらない。発信する(つまり語る)人は、生命維持のために絶対的に必要な〈呼気〉を二次利用して音声を発する。だから、文章にしたり、パワーポイントを作成するよりずっと省エネ発信なのである。それを受信する側も、消えてしまう音声を基に思考回路を開く。ある意味エネルギーが必要で、言わば互角の渡り合いだ。
※参考文献:「教養としての言語学」,鈴木孝夫,岩波新書

しかし、SNSは、圧倒的に発信側のエネルギーが大きく、受信する側との間に「相称」の非対称が生じる。

ここでコミュケートパターナリズムがどうしても生じてしまうのである。
だから「受信だけしていれば大丈夫!」という人は、いつの間にか、その受信すらしなくなる。
「発信だけしていれば大丈夫!」という人は、いつの間にか相手の顔を忘れてしまう。

僕たちは「コミュニケーションが造ってしまう“支配”」に、まじめでひたむきでなければならない。

あなたは発信していますか?
あなたは受信する人の顔を思い浮かべることができますか?