「描く」という「覚悟」

学生たちが書くノートの文字が何となく小さくなっているような気がする。

文字のサイズを計測/蓄積してきたわけではないので感覚的なものでしかないが。

しかも、その線は消えるように細い。

これは僕の老眼だけのせいではないと思う。

ノートの隅っこから丁寧に書き始め、その内容さえも、左上を拠点として展開される文脈に見えてきてしまう。

鉛筆がシャープペンシルに主役の座を譲って久しい。

そのシャープペンシルを駆使する学生の利き手の反対側の手のすぐ側には、消しゴムがスタンバイしている。なかには両手でそれぞれを持って、書いては消し、消しては書く構えの学生もいる。

最近は筆記用具も進化していて、ボールペンのようであるが消すことが可能なものも登場している(おかげで、使い分けをすることを教えなければならないという一手間も増えた)。

このように、言わば遠慮がちになった「書く」という行為と、自信の無さー失敗を気にする気持ちーとを結びつけてしまうのは考えすぎだろうか。

その気持ちが線を細くし、思考・発想を萎縮させ、消すことを前提とした「書く」姿勢を作るのではないだろうか。

アローチャートを描く際も同じことが言えると思う。
失敗も思考した立派な証拠である。
思考した証拠を残し可視化することが多くの効果をもたらすと主張するのがアローチャートである。

描き損じることを恐れないで欲しい。

「描く」という行為は、「覚悟する」ということに近い。

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