備前住香平【6】
自分の名前も分からない
家族のことも分からない
そんな状態ではあったが、外傷はそれほどひどくないため、ICUから一般病棟へ。
事故の衝撃は凄く、車は廃車レベルであったため、一般病棟へ戻ったものの安静は変わりなく、自分で動くことは許されない状態で、家族以外の面会は謝絶だった。
この日から食事が始まり、何気なく食べていると…
「へぇ、左利きだったんですね。」
と看護師。
私は右利きだったのだが(この時はそんな記憶もない)、左手で食事を取っていた。
それを聞いた家族は、
「えっ?右利きですけど…」
「えぇっ?凄く上手に左で食べていらっしゃいますが…」(看護師)
ってな感じ。
今では、右でも左でも箸を上手に使えます(笑)
不思議ですね。
記憶を取り戻すために始まったのは、ST(言語聴覚士)によるリハビリであった。
基本的なIQテストや、分かる範囲での情報の聞き取りなどが毎日続いた。
リハビリが始まってから一週間が経とうとしたある日。
点滴の交換に来た看護師に、
「エラスター(静脈留置針)って、いつごろ外れるんですかねぇ。」
「そうですね、担当医に確認しておきますね。」
と言って、病室出ようとして、
「若頭さん、この針のこと分かるの?」
とベッドサイドに駆け寄ってきた。
「留置針ですよね?サーフローでしたっけ?」
と若。
「そうそう、留置針。他に知ってることあります?」
と看護師。
「ん〜、留置針と翼状針ってのがあって…朝に採血した時には翼状針だったかなぁ。ここにあるのは、シリンジポンプでしょ?今寝てるベッドはパラ◯ウント製で3モーターかな。隣のベッドはクランクタイプだけど。」
「頭もとには酸素と吸引機ですよね。病院だから集中配管で。」
「んでもって、今は留置カテでオシッコ(笑)」
と若。
「凄い凄い!って、看護師だったっけ?若さん。違った気がするけど(笑)」
ってなことで、看護師がカートに色々な医療機器をもってきた。
血圧計や聴診器など、並べられた全ての機器の名前を言い当て、病室がパーティーみたいな盛り上がりになった。
「なんで分かるんだろうねぇ。」(看護師)
「なんでだろうねぇ」(若)
それ以外のことは、分からないままであったが、医療用語は使うことができたのである。
「そんなのはいいから、私たちのことを思い出せばいいのに…」
家族がため息をつきながら、そう言ったのは言うまでもない。
この日から、医療用語を使いながら看護師やセラピストと会話をする時間が大幅に増えた。
記憶を取り戻す、大きな大きな一歩になった。
ちょっとした一言を聞き逃さず、即座に反応してくれた看護師。
もしも、あのまま点滴を交換し詰所に戻っていたら、今の若頭は存在しないかもしれないのである。
私たちは、関わる利用者や家族、専門職のちょっとした一言を聞き逃していないだろうか。
語りがもつ力は大きな力である。
言霊の力であろうか。
>>>続く