備前住香平【8】
記憶が曖昧な状況は続き、人物は思い出せても関係性が繋がらない。
そんななか、病院はある賭けに出たのだった…
その日は、天候も穏やかで病室にしても気持ちが良かったのを覚えている。
昼食を済ませたころに、主治医がやってきた。
「若さん、外泊…してみるか。家に泊まってみるか。」
…「外泊ですか?家といってもどこが家だか。試してはみたいです。」
「はい〜、決まりね。明日から外泊〜♪」と明るい主治医。
おっと、明日からか…なかなか攻めてくるな…と。
その日の午後は、翌日からの外泊のことで頭がいっぱいであった。
「思い出せるのか?」
「これでダメなら…」
「そもそも、家ってどこよぉ。」
ってな感じである。
夜も気になって眠ることができなかった。
朝を迎え、家族(と、説明されている)と一緒に外泊のために病院を出発したのであるが、これが大変だった(らしい)。
車の事故がフラッシュバックするのか、車内で暴れたりして、それはそれは大変だった。
なんとか家(と、説明された)に着いた時にはグッタリで、言われるがままに中に入り、そのまま眠ってしまった。
数時間ほど死んだように寝て、目を覚ましたが。
「ん〜、ここはどこ?」ね。
そうそう簡単にはいかないもので、自分の家だとは認識することができなった。
不安でたまらず、動くことも嫌で、じっとしているしかできなかった。
家族も、どうすることもできず、時間が経つばかりであった。
しかし、人間の生理現象だけはどうしようもない。
膀胱がパンパン、お漏らしするわけにもいかないため、トイレへ。
「トイレに…」
そう言って、スタスタスタ……とトイレへ歩いていき、ジャーっと水を流して出ると。
「なんでトイレの場所が分かったの?」
と、きたもんだ。
「なんででしょう。」
(分かったら苦労はしないが、そんなことを言える雰囲気ではなかった。)
たぶん、なんとなく。
そうだったんだと思う。
長期記憶として頭に刷り込まれた動作が、トイレまで行かせたのだと。
この日の外泊の成果は、【トイレに1人で行けた。】というだけで、それ以外については思い出すことはなかった。
翌日、病院へ戻るのであるが、
「ふぅ、疲れた。病院に帰れる。」
頭のなかは、そうだったと記憶している。
「良かった!やっぱり効果あったねぇ。外泊、外泊、またやろう♪」
主治医からすれば、求めていた以上の結果が得られたようだった。
泊まらずに帰ってくるものだと思っていたらしい。
「よく知らないところで寝て帰ってきたよねぇ。神経太いわ(笑)」
だそうだ。
でも、これが大きなきっかけとなり、退院が現実的な目標に設定されたのは事実である。
大きな賭けに、勝ったといっても良いのであろう。
このときの、ノーマティブニーズとフェルトニーズはどのような関係だったのだろうか。
主治医は、どのような思考をしていたのだろうか。
今となっては分かりもしないが、目標設定がきちんと繋がっていたのであろう。