潮風(かぜ)と共に去りぬ

『風と共に去りぬ』(原題: Gone with the Wind)と言えば、1939年に製作されたアメリカ映画です。空前の大ヒットとなりアカデミー賞では9部門を受賞しました。

元となった小説版は南北戦争を題材に、当時絶頂にあったアメリカ南部白人たちの貴族文化社会が「去った」事を意味しています。

今回はお題を頂きましたので「潮風と共に去りぬ」(原題: Gone with the sea breeze)と題して小樽の歴史についての記事をお届けしたいと思います。

来月第4回アローチャート学会北海道大会でこの地を訪れて下さる皆様方に、
小樽の歴史について少し知って頂き、道中の合間にその景色と共に、そこにある背景をお楽しみ頂けたらと思います。

――――――――1869年。

明治政府は開拓使を置き「蝦夷」を「北海道」称しました。
「オタルナイ」は「小樽」と改めらました。
統計上最古の明治元年の1867年の人口は2,230人。
海の玄関口である小樽には次々と人と物が集まり始めました。

1880年には鉄道が小樽に開通します。
これは北海道では初めて。日本でも3番目となる開通だったそうです。

1893年ここ小樽に日本銀行が開設されます。
昭和初期にかけて金融機関や船舶会社、商社などが立ち並び、世界の金融地区ニューヨークのウォール街をなぞり「北のウォール街」と呼ばれました。現在も多くの歴史的建造物として残され異国情緒溢れる街並みに華を添えています。

1920年の第1回国勢調査では人口は札幌市を上回る108,113人を数えていました。
1923年に小樽運河が完成し物流の玄関口とし活躍します。

東京でオリンピックが開催された1964年に人口はピークの207,093 人を迎えます。

しかし時代の流れと共に小樽の繁栄は陰りが出てきます。
船の物資運搬の需要が大きく減り、交易の拠点としての役割も終焉を迎えていきます。

小樽運河はその役目を終え「保存」か「埋め立て」かをめぐって論争が起きました。全国を巻き込み十数年に渡り市を二分した「運河論争」です。

――――――――1966年

車社会化によって深刻化していた渋滞緩和を図るため、市は道路を6車線化する都市決定計画を策定しました。

この計画には運河の埋立てと倉庫群の解体が伴っていたため、周辺の歴史的建造物を含めて保存に向けた市民活動が起こりました。

1973年市民が「小樽運河を守る会」を設立。
ここから10年以上に及ぶ議論が続き、この間道路は運河区間を残す一部が開通します。

1983年に「小樽運河百人委員会」を結成して約10万人の署名を集めるなど再度、保存活動が盛り上がります。
百人委員会は当時の小樽市長のリコール運動を巡る急進派と慎重派が対立します。

慎重派が1984年に「小樽再生シンポジウム実行委員会」を結成し、翌年に発展的解消した「小樽再生フォーラム」となり活動します。

最終的に、

運河の幅の半分を埋立てて道路とし、散策路等を整備することで議論が決着して1986年に完成しました。

市民運動の末、今の形になったのが現在の小樽運河です。

 

―――――――運河論争を経て残った運河はこの町のシンボルとなりました。

その後小樽市が観光都市へと変容していくのはご承知の通りです。

 

その後の小樽。

現在2017年の人口は119,492人。2025年には102,199人になると予想されています。
小樽市も高齢化社会を迎えまた一つの時代が過ぎ、また一つの時代を迎えようとしています。

来月小樽にお越しの際は、

潮風と共に、この町の景色とこの様な歴史背景も、ちょっと楽しんで頂けたらと思います。
最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。

―――それでは第4回アローチャート学会 北海道大会でお待ちしております。

(和楽)

この記事はWikipediaを参照しています

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